私が取り組んだこと(原文:What I Worked On

2021年2月

大学に入る前は、学校以外でやっていたことといえば、文章を書くこととプログラミングでした。エッセイは書きませんでした。当時も、そしておそらく今でも、書き始めの作家が書くことになっているものといえば短編小説です。私はそれを書いていました。私の物語はひどいものでした。筋書きはほとんどなく、ただ強い感情を持った登場人物がいるだけで、それが物語に深みを持たせていると想像していました。

私が最初に書こうとしたプログラムは、学区が当時「データ処理」と呼ばれていたことに使っていたIBM 1401のものでした。それは9年生のときですから、私は13歳か14歳でした。学区の1401はたまたま中学校の地下にあり、友人のリッチ・ドレイブスと私はそれを使う許可を得ました。そこはまるでボンドの悪役の隠れ家のようで、CPU、ディスクドライブ、プリンタ、カードリーダーなどのエイリアンのような機械が、明るい蛍光灯の下、OAフロアの上に鎮座していました。

私たちが使っていた言語はFortranの初期バージョンでした。パンチカードにプログラムを入力し、それをカードリーダーに積んでボタンを押すと、プログラムがメモリに読み込まれて実行されました。その結果は、通常は大音量のプリンタで何かを印刷するということになりました。

私は1401に戸惑いました。どうすればいいのかわかりませんでした。振り返ってみると、これを使ってできることはあまりありませんでした。プログラムが入力を受け取る形式はパンチカードに保存されたデータだけだったのですが、パンチカードに保存されたデータなんて持っていませんでした。唯一の選択肢は、円周率の近似値を計算するなど、入力に頼らないことをすることでしたが、私はその種の面白いことをするのに十分な数学の知識がありませんでした。だから、自分が書いたプログラムは大したことができなかったはずなので、覚えていないのも不思議ではありません。私の最も鮮明な記憶は、私のプログラムの一つが終了しなかったときに、プログラムが終了しないということがありうることを知った瞬間です。タイムシェアリングのないマシンでは、これは技術的な失敗というだけでなく、社会的な失敗でもありました。私はそれを、データセンターの管理人に叱られることによって学びました。

マイクロコンピュータでは、何もかもが変わっていました。今では目の前にコンピュータがあり、机の上に鎮座しています。また、それはパンチカードの山を処理してから停止するのではなく、実行中のキーストロークに反応することができるようになっていました。[1]

初めてマイコンを手に入れたのは、マイコンを自作した友人でした。ヒースキットからキットとして販売されていたものです。彼がマイクロコンピュータの前に座ってプログラムを入力しているのを見て、どれほど感銘を受け、うらやましく思ったかを鮮明に覚えています。

当時のコンピュータは高価で、1980年頃に父を説得してTRS-80を購入するまで、私は何年も口うるさくせがみ続けました。当時の金字塔はApple IIでしたが、TRS-80でも十分でした。私が本格的にプログラミングを始めたのはこのときです。簡単なゲームを書いたり、模型ロケットの飛ぶ高さを予測するプログラムを書いたり、ワープロを書いたりしました。そのワープロを使って、父は少なくとも1冊の本を書きました。メモリには2ページ分のテキストを書けるスペースしかなかったので、父は一度に2ページずつ書いて印刷していましたが、タイプライターよりはずっとましだったのです。

プログラミングは好きでしたが、大学では勉強するつもりはありませんでした。大学では哲学を勉強するつもりでした。他の分野で勉強していることが単なる個別領域の知識になってしまうのに比べて、哲学は究極の真理を究める学問だと、高校時代の未熟な自分は思っていました。大学に入ってわかったことは、他の分野があまりにも多くの考えのスペースを占めていて、究極の真理と思われるもののためのスペースはあまり残っていないということでした。哲学に残されているのは、他の分野の人たちが無視してもいいと思っているようなエッジケースばかりだったのです。

18歳のときには、このことを言葉にすることはできませんでした。そのときにわかったのは、哲学の授業を受け続けていて、つまらなかったということだけでした。そこで私はAIに転向することにしました。

1980年代半ばにはAIが流行していましたが、特にAIに取り組みたいと思わせてくれたものが2つありました。それは、マイクと呼ばれる知能コンピュータが登場するハインラインの小説「月は無慈悲な夜の女王」と、テリー・ウィノグラッドがSHRDLUを使っているというPBSのドキュメンタリーでした。私は「月は無慈悲な夜の女王」を再読していないので、今ではどのくらい時代遅れになっているのかはわかりませんが、読んだときはその世界にすっかり引き込まれてしまいました。マイクを作れるようになるのは時間の問題だと思っていましたし、ウィノグラッドがSHRDLUを使っているのを見て、その時間はせいぜい数年だろうと思っていました。SHRDLUにもっとたくさん単語を教えるだけじゃないか、と。

当時コーネル大学にはAIの授業はありませんでした。大学院の授業にさえもありませんでした。それで独学での勉強を始めました。当時はLispがAIの言語とみなされていたので、Lispを学ぶことになりました。当時、一般的に使われていたプログラミング言語はかなり原始的なもので、プログラマーの考え方もそれに準じたレベルでした。コーネル大学でのデフォルト言語はPL/Iと呼ばれるPascalに似た言語で、他の場所でも同じような状況でした。Lispを学んだことで、私のプログラムの概念があっという間に広がったので、新しい限界がどこにあるのかがわかるようになるまでには何年もかかりました。これこそが、私が大学に期待していたことでした。本来なら、そういう学びは教室で得るものなのでしょうが、そうでなくても問題ありませんでした。それからの数年間、私はいい調子でした。自分の進む道がわかっていました。

学部の卒業論文では、SHRDLUをリバースエンジニアリングしました。もう夢中でした。コードも楽しいものでしたが、私をわくわくさせていたのは、SHRDLUが人工知能という山の裾野をすでに登りかけているという私の信念でした。今では想像しにくいですが、1985年にはそう思っている人は私だけではありませんでした。

私はコーネル大学のプログラムに入っていたのですが、そのプログラムでは専攻を選択する必要はありませんでした。好きなクラスを何でも履修でき、学位につける名前も好きなものを何でも選ぶことができました。私はもちろん“人工知能”にしました。実際に物理的な卒業証書を手にしたとき、学位に引用符まで含まれてしまっていることに気づき、がっかりしました。それは皮肉の引用符のように見えたからです。当時は嫌な気持ちになっていましたが、今では面白いほど正確に思えます。それにはいくつかの理由があるのですが、当時の私ももうすぐそれらに気がつくことになります。

私は3つの大学院に出願しました。当時AIで有名だったMIT、イェール、そしてリッチ・ドレイブスが通っていたので訪れたことのあるハーバードです。ハーバードは、私のSHRDLUクローンで使ったパーサを発明したビル・ウッズの母校でもあります。通ったのはハーバードだけだったので、そこに行きました。

いつのことかは覚えていません。ある特定の瞬間に起こったというわけではないかもしれません。とにかく、大学院の最初の年に、当時実践されていたAIはインチキだと私は気づいてしまったのです。当時のAIというのは、「犬が椅子に座っている」と言われたプログラムが、それを何らかの形式的な表現に変換して、自分が知っていることのリストに追加するようなもののことです。

これらのプログラムが実際に示したのは、自然言語には、それが形式言語となるような部分集合があるということです。しかし、それは非常に限られた部分集合です。それでできることと、実際に自然言語を理解することとの間には 橋渡し不可能なギャップがあることは明らかでした。それは、実際には、単にSHRDLUにもっと多くの言葉を教えればいいという問題ではありませんでした。概念を表す明示的なデータ構造を持つというAIのやり方では、うまくいかないのです。それが壊れていたおかげで、よくあるように、それに貼りつけるさまざまなバンドエイドについての論文を書く機会が多く生み出されましたが、いくらそれをやってもマイクにはならないのです。

そこで、私は自分の計画の残骸から何かを救い出すことができないかと周りを見回してみました。そこにあったのはLispでした。Lispが当時人々に注目されていたのはAIとの関連性からでしたが、私は経験から、Lispはそれ自体として興味深いものであるということをわかっていました。そこで、私はLispに焦点を当てることにしました。Lispのハッキングについての本を書くことにしたのです。その本を書き始めたときに、自分がどれだけLispハッキングのことを知らなかったかを考えると恐ろしいぐらいです。しかし、何かについての本を書くことほど、それを学ぶのに役立つことはありません。On Lispという本が出版されたのはようやく1993年になってからのことでしたが、その多くは大学院時代に書いたものです。

コンピュータサイエンスは、理論とシステムという2つの側面の間にある不安定な同盟関係です。理論の人は何かを証明し、システムの人は何かを作ります。私は何かを作りたいと思っていました。私は理論に敬意を持っていました - 実際、それは2つの半分のうちのより立派なものではないかとひそかに疑っていました - しかし、何かを作ることはそれよりずっとエキサイティングに思えたのです。

しかし、システムの仕事の問題点は、それが後に残らないということでした。あなたが今日書いたプログラムがどんなに優れていたとしても、せいぜい数十年後には時代遅れになってしまうでしょう。そのころには、人々はあなたのソフトウェアについて脚注で言及するかもしれませんが、実際に使う人はいなくなっているでしょう。また、それは非常にしょぼいものに見えるはずです。この分野の歴史を知っている人だけが、当時はそれが優れたものであったということに気づいてくれるかもしれません。

コンピュータラボには、余ったゼロックスのDandelionがいくつか転がっていました。誰でも、欲しいと思えば自分のものにできました。私は一瞬誘惑に駆られましたが、その時点での基準ではとても遅いものでした。もらって何になるでしょうか? 他に欲しがる人もいなかったので、そのまま捨てられてしまいました。システムの仕事もそういうものでした。

私は、ただ物を作るというのではなく、長く残る物を作りたかったのです。

そんな不満な状態の中、私は1988年、CMUの大学院にいたリッチ・ドレイブスを訪ねに行きました。ある日、私は子供の頃によく通っていたカーネギー・インスティテュートを訪ねました。そこで絵を見ているうちに、当たり前のように思えるかもしれませんが、私にとっては大きな驚きだったことに気がついたのです。そこの壁には、自分にも作ることができる、長く残るものがあったのです。絵画は時代遅れになることはありません。最高のものは何百年も前のものもあるのです。

しかも、それで生計を立てることもできるのです。もちろん、ソフトウェアを書くほど簡単にはいかないけれど、本当に勤勉で、本当に倹約して暮らしていれば、生きていけるだけのものは作れるはずだと思っていました。そして、芸術家であれば、本当の意味で独立することができます。上司もいないし、研究資金も必要ありません。

昔から絵を見るのは好きでした。しかし、作れるのかどうかはわからりませんでした。そんな可能性があると想像したこともありませんでした。知識としては、芸術は人が作るものであり、自然に湧いてくるものではないということは知っていました。しかし、芸術を作る人たちは別の種族のような気がしていました。大昔の人だったり、あるいはライフ誌の人物紹介ページで不思議なことをしている謎の天才だったり。実際に「芸術」を「作る」ということ、その名詞にその動詞をつなげるということは、ほとんど奇跡のように思えました。

その秋、私はハーバード大学で美術の授業を受け始めました。院生はどこの学部でも授業を受けられるし、指導教官のトム・チーサムはとても気さくな人でした。彼は私が受けている奇妙な授業のことを知っていたかどうかはわかりませんが、知っていたとしても、そのことについては何も言いませんでした。

そういうわけで、私はコンピュータサイエンスの博士課程に在籍しつつ、芸術家になろうと思いつつ、Lispハッキングに純粋に恋をしつつ、せっせとOn Lispを執筆していました。つまり、大学院生にはよくあることですが、自分の論文のテーマとは違う複数のプロジェクトに精力的に取り組んでいたというわけです。

この状況からどう抜け出せばいいかわかりませんでした。大学院を中退したくはありませんでしたが、それ以外でどうやって抜け出せばいいのでしょうか? 友人のロバート・モリスが1988年にインターネットワームを書いたことでコーネル大学を追い出されたとき、私は彼が大学院を出るための素晴らしい方法を見つけたことをうらやましく思ったのを覚えています。

そして1990年4月のある日、転機が訪れました。私はチーサム教授に出くわし、彼は私がその6月に卒業するのに十分なレベルにあるかどうかを尋ねました。私はまだ一文字も論文を書いていなかったのですが、人生で一番頭の回転が速かったのでしょう、その瞬間に、締め切りまでに残った5週間ほどの間にOn Lispの一部を再利用して論文を書いてみることに決めて、ほぼ間を置かずに「はい、大丈夫です。いま書いているものを数日後にお見せします。」と答えることができました。

私は継続の応用をテーマに選びました。今思えば、マクロや埋め込み言語のことを書くべきでした。そこには、ほとんど探求されていない世界がありました。しかし、私が望んだのは大学院を卒業することだけでした。急いで書き上げた論文は、かろうじて卒業レベルに達していました。

その間、私は美術学校に出願していました。二つの大学に出願しました。アメリカのRISDとフィレンツェ美術学校です。後者は、一番古い美術学校なので、いいんじゃないかと思ったのです。RISDは私を受け入れてくれたのですが、フィレンツェ美術学校からは何の連絡もなかったので、私はRISDのあるプロビデンスに行きました。

私が申し込んだのはRISDのBFAプログラムなので、実質的にもう一度大学に行かなければならないということでした。これは普通考えるほど変なことではありません。私はまだ25歳でしたし、美術学校にはさまざまな年齢の人たちが集まっているからです。RISDは私を編入学の2年生として扱ってくれ、その夏のうちに基礎をやるよう言われました。基礎というのは、デッサンや色彩、デザインなどの全員が履修しなければならない基礎的な科目の授業のことです。

夏の終わりごろ、びっくりするような出来事がありました。フィレンツェ美術学校(アカデミア)から手紙が来たのです。その手紙は、私が住んでいたマサチューセッツ州のケンブリッジではなく、イギリスのケンブリッジに送られていたために遅れていたのです。秋にフィレンツェで行われる入学試験が受けられるとのでした。あと数週間しかありません。素敵な大家さんが屋根裏部屋に私の荷物を置いてもいいといってくれました。大学院でやったコンサルティングの仕事で貯めたお金もありました。節約すれば一年は暮らせるでしょう。あとはイタリア語を勉強するだけです。

この入学試験を受けなければならなかったのは、ストラニエリ(外国人)だけでした。振り返ってみると、これは外国人を排除するための方法だったのかもしれません。フィレンツェで美術を学ぼうという考えに惹かれたストラニエリはたくさんいたので、そうでもしないとイタリア人の学生が少数派になってしまっていたでしょう。私はその夏、RISDの基礎コースを受けていたので、デッサンや絵を描くことはそれなりに得意だったのですが、どうやって筆記試験に合格したのかは今でもよくわかりません。小論文の問題にセザンヌについて書くことで答えたことと、限られた語彙を最大限に活用して知的レベルをできるだけ高くしたことを覚えています。[2]

私はまだ25歳になったばかりなのに、もうわかりやすいパターンが見えてきています。私はここでまたしても、何か一流のことを学ぼうと思ってどこかの権威ある教育機関に通い、またしてもがっかりすることになったのです。アカデミアの絵画科の学生と教員は、想像できる限りでは最も感じのいい人たちでしたが、学生は教員に何かを教えてもらうことを求めず、その代わりに教員は学生に何かを学んでもらうことを求めない、という取り決めをとっくの昔にしていたのです。そして同時に、関係者全員が外見的には19世紀のアトリエの慣習に従うことになっていました。私たちは実際に、19世紀のアトリエ絵画に見られるような薪を入れる小さなストーブを持っていて、ヌードモデルはやけどをしないぎりぎりのところまでその近くに座っていました。私以外に彼女を描いた人はほとんどいませんでしたが。残りの学生たちは、おしゃべりをしたり、アメリカの美術雑誌で見たものを時々真似してみたりして時間を過ごしていました。

私たちのモデルは、私のすぐ近くに住んでいることがわかりました。彼女はモデルと地元の骨董屋に売るための贋作を作ることで生計を立てていました。彼女が本に載っている無名の古い絵画を模写した後、骨董屋がそれを受け取って、傷をつけて古いもののように見えるようにするのです。[3]

アカデミアに在籍していた頃、私は夜になると寝室で静物画を描き始めました。絵は小さいものでした。部屋も小さかったし、当時手に入ったのはキャンバスの端切れぐらいだったからです。静物を描くことは、人間を描くこととは違います。その名の通り、被写体が動くことができないからです。人は一度に15分以上は座ることができませんし、座っていてもじっとしていることはありません。だから、人物を描くための伝統的な手口は、一般的な人物を描く方法を覚えて、それをあなたが描いている特定の人物に合わせて修正することです。一方、静物画では、あなたが見ているものをピクセル単位でコピーすることができます。もちろん、それだけで終わらせてしまうと、写真のような正確さしか得られません。静物画の面白さは、それが人間の頭を通して描かれるところにあります。例えば、ある地点で色が急に変わるのは、物体の端っこだからだ、という視覚的な手がかりを強調したいということがあります。そういうことを微妙に強調することで、比喩的な意味だけでなく、厳密な情報理論的な意味でも、写真よりもリアルな絵画を作ることができるのです。[4]

静物を描くのが好きだったのは、自分が見ているものに興味があったからです。日常生活の中では、私たちは見ているものの多くを意識しないでいます。ほとんどの視覚知覚は低レベルの処理によって処理されていて、「これは水滴だ」と脳に伝えるだけで、明点と暗点がどこにあるのかは伝えなかったり、「これは茂みだ」と伝えるだけで、すべての葉っぱの形や位置を教えてくれなかったりします。これは脳の特徴であって、バグではありません。日常生活では、すべての茂みの葉っぱに意識を向けていては気が散ってしまいます。しかし、何かを描かなければならないときには、もっとよく見なければならないし、よく見れば見るべきものがたくさんあります。人が当たり前だと思っているものを何日もかけて描いてみても、新しいことに気づくことができます。それは、人が当たり前だと思っていることについて何日もエッセイを書いてみても、新しいことに気づくことができるのと同じです。

これが唯一の描き方ではありません。それが100%良い描き方であるかどうかもわかりません。しかし、試してみる価値は十分にあると思いました。

私たちの先生であるウリヴィ教授はいい人でした。彼は私が一生懸命やっているのを見て、良い成績をつけてくれました。その成績は、学生ごとに持っていたパスポートのようなものに記録されていました。でも、アカデミアではイタリア語以外は教えてくれませんでしたし、お金も尽きていたので、1年目の終わりにはアメリカに戻りました。

RISDに戻りたいと思っていたのですが、お金がなく、RISDは学費がとても高かったので、1年間就職して、次の秋にRISDに戻ることにしました。就職したのはインターリーフという会社で、文書を作成するためのソフトを作っていました。Microsoft Wordのようなものかって? その通りです。ハイエンドのソフトウェアはローエンドのソフトウェアに市場を食われがちだということを学んだのは、そういうわけです。でも、インターリーフがなくなるまでは、まだ数年はありました。[5]

インターリーフはかなり大胆なことをしていました。Emacsにインスパイアされてスクリプト言語を追加し、さらにそのスクリプト言語をLispの方言にしたのです。そこで彼らは、LispハッカーにLispで何かを書いてもらおうとしたのです。これは私がしたことの中で最も普通の仕事に近いものでした。ここで、上司と同僚に謝罪します。私はいい従業員ではなかったからです。そこのLispは巨大なCの塊の上の薄い薄い層に過ぎませんでした。また私はCを知らず、それを学ぶ気もなかったので、そのソフトウェアのほとんどを理解できないままでした。それに、私はひどく無責任でした。これは、プログラミングの仕事が、毎日決まった時間に出勤する仕事だったころの話です。それは不自然に思えました。今ではこの点で世間も私の考え方に近づきつつありますが、当時はそれが多くのいざこざの原因となっていました。年末になると、私は密かにOn Lispに時間を費やしていまして、この頃には出版契約を結んでいました。

良いところは、特に美大生の基準で考えると、大金をもらっていたことです。フィレンツェでは、家賃を払った後、それ以外のすべての予算は1日7ドルでした。今では、会議で座っているだけのときでさえ、1時間ごとにその4倍以上の給料をもらっていました。生活費を抑えることで、RISDに戻るのに十分なお金を貯めることができただけでなく、大学のローンも完済することができました。

インターリーフでは、いくつかの有益なことを学びました。といっても、ほとんどは「何をやってはいけないか」ということでした。テクノロジー企業は営業よりも製品担当者が経営している方が良いということ(営業はちゃんとしたスキルであり、それが得意な人は本当に得意なのですが)、コードに関わる人が多すぎるとバグを招くこと、気が滅入るようなオフィススペースはたとえ安かったとしても避けたほうがいいということ、計画的な会議よりも廊下での雑談のほうが役に立つということ、官僚的な大口顧客は危険な資金源であること、そして、従来の勤務時間とハッキングに最適な時間帯の間、また従来のオフィスとハッキングに最適な場所との間には大きなずれがあるということを学びました。

しかし、私が学んだ最も重要なことは、ハイエンドのソフトウェアはローエンドのソフトウェアに市場を食われるということでした。つまり、「エントリーレベル」にいるのがいいということです。権威はありませんが、自分がそこにいないと、誰かがその位置を占め、そして自分は天井に押しつけられて潰されてしまいます。権威というのは危険な兆候だということです。この知識は、ViawebとY Combinatorの両方で使うことになります。

翌年の秋にRISDに戻るために退社したとき、顧客のプロジェクトを行うグループのためにフリーランスの仕事をする取り決めをしました。これがその後の数年間の生き残り方でした。後日、あるプロジェクトのために戻ってきたとき、ある人がHTMLという新しいものについて教えてくれました。彼によると、それはSGMLの派生物だということでした。マークアップ言語マニアはインターリーフでは仕事の障害となっていたので、私は彼を無視していましたが、このHTMLというものは後に私の人生の大きな部分を占めるようになりました。

1992年の秋、私はRISDで学業を続けるためにプロビデンスに戻りました。基礎コースは単なる入門的なものでしたし、アカデミアは(非常に洗練された)ジョークのようなものでした。今度こそ、本当の美術学校がどんなものかを知ることになるはずでした。しかし、何ということか、RISDもどちらかというとアカデミア寄りだったのです。確かに、アカデミアよりはきっちりしていたし、お金もずっと多くかかりました。しかし、美術学校というものは、医学学校が医学と関係しているように美術と関係しているわけではない、ということがだんだんわかってきました。少なくとも絵画科はそうでした。隣人が所属していた織物学科は、かなり厳しそうでした。イラストレーションや建築もそうだったはずです。しかし、絵画科は「ポスト厳しさ」の世界だったのです。絵画科の学生は自分を表現することになっていました。それは、世俗的な学生にとっては、ある種の独特のシグネチャー・スタイルをでっち上げるということでした。

シグネチャー・スタイルとは、ショービジネスでいうところの「持ちネタ」のようなもので、自分の作品であることがすぐにわかるようなものを指します。例えば、ある種の漫画のような絵を見たら、それがロイ・リキテンスタインの作品だと分かります。だから、ヘッジファンドのマネージャーのアパートにこのタイプの大きな絵が飾られていたら、その人が何百万ドルも払ってそれを買ったということがわかるのです。それがアーティストがシグネチャー・スタイルを持っている理由とは限りませんが、それは普通買い手がそのような作品に多くのお金を払う理由なのです。[6]

真面目な学生も多くいました。高校時代に「絵が得意」で、もっと上手に描くことを学ぶために、アメリカで最高の美術学校に来た子たちです。彼らはRISDでの体験に戸惑い、落胆する傾向がありましたが、絵を描くことが彼らの仕事だったので、彼らはそのまま続けていました。私は高校時代には絵が得意な子供ではなかったのですが、RISDでは、シグネチャースタイルを求める人たちの部族より、確実に彼らの部族に近い存在でした。

RISDで受けた色の授業はかなり勉強になりましたが、それ以外は基本的に自習していました。しかし、自習ならタダでできます。そういうわけで、私は1993年に中退しました。プロビデンスを少しブラブラしていたら、大学時代の友人ナンシー・パルメットが私に太っ腹な提案をしてくれました。お母さんがニューヨークに持ってるレントコントロールのアパートが空くんだけど、住まない? と。家賃は今の場所よりそんなに高くないし、ニューヨークといえばアーティストがいる場所のはずです。住みたい! と私は答えました。[7]

アステリックスの漫画は、ローマ・ガリアの中にありながらローマの支配下にない小さな一角にズームインすることから始まります。ニューヨークの地図でも似たようなことができます。アッパーイーストサイドを拡大すると、裕福ではない(少なくとも、1993年には裕福でなかった)一角があるのです。そこはヨークビルと呼ばれていて、そこが私の新しい家でした。これで私もニューヨークのアーティストです。少なくとも、絵を描いていて、ニューヨークに住んでいるという文字通りの意味においては。

私はお金のことが心配でした。インターリーフの業績が傾いているのを感じていたからです。フリーランスのLispハッキングの仕事は非常に珍しく、また私は他の言語でプログラムしたくありませんでした。他の言語といえば、当時では良くてもC++だったでしょう。そこで、私は金銭的なチャンスを逃さないために、Lispに関する本をもう一冊書くことにしました。これは教科書として使えるような広く読まれる本になるはずでした。私は、印税で質素な生活をして、絵を描くことに時間を費やしている自分を思い描いていました。(この「ANSI Common Lisp」という本の表紙の絵は、この頃描いた絵です)

私にとってニューヨークで一番良かったのは、イデル・ウェーバーとジュリアン・ウェーバーの存在でした。イデル・ウェーバーは初期のフォトリアリストの画家の一人で、私はハーバード大学で彼女の絵画の授業を受けていました。生徒たちからこれほど愛されている先生は他に知りません。私を含め、多くの元教え子が彼女と連絡を取り合っていました。私がニューヨークに引っ越してきてからは、彼女の事実上のスタジオアシスタントになりました。

彼女は一辺が一メートル半ぐらいある四角い大きなキャンバスに絵を描くのが好きでした。1994年末のある日、私がそんな巨大キャパスの一枚を広げていたとき、ラジオから有名なファンドマネージャーの話が流れてきました。彼は私よりもそれほど年上ではなく、超金持ちでした。そのとき、ふと思いついたのです。自分が金持ちになってみてもいいんじゃないか? そうすれば、何でも好きなことに取り組めるはずだ。

その間、私はワールド・ワイド・ウェブと呼ばれるこの新しいものについて、ますます多くのことを耳にしていました。ロバート・モリスがハーバード大学の大学院に在籍していたケンブリッジを訪れたときに、私に見せてくれたのです。それを見て、ウェブはすごいことになるだろうと思いました。私はグラフィカル・ユーザー・インターフェースがマイクロコンピュータの普及をどれだけ進めたかを経験していました。ウェブはインターネットに対して同じことをするように思えました。

もし私が金持ちになりたければ、駅を出る次の列車はここにありました。私はその部分については正しかったのです。間違っていたのはアイデアでした。アートギャラリーをオンラインで公開する会社を立ち上げようと思ったのです。正直に言うと、これまでたくさんのY Combinatorへの応募を読んできているので、これが最悪のスタートアップのアイデアだとまでは言えませんが、けっこうな線を行っていると思います。アートギャラリーはオンラインにすることを望んでいませんでしたし、今でもかっこいいサイトを作る気はありません。それは彼らの商売方法ではないのです。私はギャラリー用のウェブサイトを生成するソフトウェアをいくつか書き、ロバートは画像のサイズを変更するソフトウェアを書いて、ページを提供するためのhttpサーバーをセットアップしました。それからギャラリーと契約しようとしました。難しいなんてものじゃありませんでした。ただでも要らないと言われるのです。無料でサイトを作らせてくれるところは少しありましたが、お金を払ってくれるところはありませんでした。

それから、オンラインストアというものが出てきました。そこで気がついたのですが、注文ボタンを除けば、それらは今までギャラリー向けに生成していたサイトと同じものだったのです。「インターネット・ストアフロント」という仰々しい響きのものは、私たちがすでに作り方を知っているものでした。

1995年の夏、ANSI Common Lispの最終原稿を出版社に提出した後、私たちはオンラインストアを構築するためのソフトウェアを書こうとし始めました。最初は、普通のデスクトップソフトウェアにするつもりでした。つまり、当時の状況からすると、Windowsソフトウェアということになります。これは危険な兆候でした。私たちのどちらもWindowsソフトウェアの書き方を知らないかったし、学ぶ気もなかったからです。私たちはUnixの世界の住人でした。とりあえず、ストアビルダーのプロトタイプをUnix上で書いてみてもいいんじゃないかと考えました。ロバートはショッピングカートを書き、私は店のための新しいサイトジェネレータを書きました。もちろん、Lispでです。

私たちはケンブリッジのロバートのアパートで仕事をしていました。彼のルームメイトは長い間留守にすることが多かったので、そういう時期は私は彼の部屋で寝ることになりました。なぜかベッドフレームもシーツもなく、床にマットレスが敷かれていました。ある朝、このマットレスの上に横たわっていたとき、私はあるアイデアを思いついて、L字型に起き上がりました。ソフトウェアをサーバー上で動かして、ユーザーにリンクをクリックさせて操作させたらどうだろう? そうすれば、ユーザーのコンピュータ上で実行するものを書く必要はありません。そのソフトウェアと同じサーバー上でサイトを生成することもできます。ユーザーに必要なのはブラウザーだけです。

ウェブアプリと呼ばれるこの種のソフトウェアは今でこそ一般的ですが、当時はそれが可能であるかどうかさえ明確ではありませんでした。可能かどうかを調べるために、私たちはブラウザから操作できるストアビルダーをひとつ作ってみることにしました。数日後の8月12日、動くものができました。UIは最悪でしたが、クライアントソフトウェアを使ったりサーバーのコマンドラインに何かを入力したりしないでも、ブラウザだけでストア全体を構築できるということをそれは示してくれました。

そのとき、私たちは本当に何かをつかんだような気がしていました。こういうふうに動作する新世代のソフトウェアのビジョンが私には見えました。バージョンや移植などのくだらないものは必要ありません。インターリーフには、ソフトウェアを作るグループと同じぐらいの大きさの、リリースエンジニアリングというグループがあったものですが、もうそんなものは要らなくなるのです。サーバー上で直接ソフトウェアをアップデートできるのです。

私たちは、Viawebという新しい会社を立ち上げました。名前は、ソフトウェアがウェブを介して動作するということにちなむものです。私たちは、イデルの夫ジュリアンから1万ドルのシード資金を得ました。その資金と、最初の法的な仕事やビジネスのアドバイスをしてくれたりした見返りに、会社の株の10%を彼に渡しました。10年後、この取引はY Combinatorのモデルとなります。創業者にはそういうものが必要だということが私たちにはわかっていました。私たち自身、そういうものを必要としていたからです。

この段階では、私の純資産はマイナスでした。私の1000ドルそこらの銀行預金は税金分にもならなかったからです。(インターリーフのコンサルティングで稼いだお金のうち、適切な割合をきちんと貯金していたかって? いいえ、していませんでした。)ロバートが大学院の奨学金をもらっていたとはいっても、私が生きていくためにはそのシード資金が必要でした。

当初は9月に立ち上げる予定でしたが、ソフトウェアの開発を進めるうちに、より野心的になっていきました。最終的にはWYSIWYGサイトビルダーを構築することに成功しました。ページを作成している間は、静的なページにつながるのではなく、リンクがサーバー上のハッシュテーブルに保存されているクロージャを参照するという点を除いて、静的なページとまったく同じように見えました。

ここで、美術を勉強していたことが役に立ちました。なぜなら、オンラインストアビルダーの主な目標は、ユーザーにちゃんとしたものに見えるようにすることであり、ちゃんとしたものに見えるための鍵は作りのよさだからです。ページのレイアウトやフォント、色をうまく使えば、寝室で店を経営している人のページを大企業のページよりちゃんとしたものに見せることができます。

(私のサイトが古臭く見えるのは、いまだにこのソフトで作られているからです。今日では不格好に見えるかもしれませんが、1996年には、それは最高にかっこよかったのです)。

9月になってロバートは反発しました。「1ヶ月もかけて作っているのに、まだ完成していない」と。今から考えると笑える話です。実際は、その後3年近くの間、これを作り続けることになるのですから。しかし、私はより多くのプログラマーを採用するのが賢明かもしれないと考え、大学院にすごいやつがいないかとロバートに尋ねました。彼はトレバー・ブラックウェルを推薦してくれましたが、これには最初驚きました。その時点では、トレバーについて知っていたのは、人生のすべてを情報カードの山に入れようとしているやつだということぐらいでした。トレバーはそれをいつも持ち歩いていたのです。しかし、いつものように、Rtmの意見に間違いはありませんでした。トレバーは、恐ろしく能力のあるハッカーだということがわかりました。

ロバートとトレバーとの仕事は、とても楽しいものでした。彼らは、私が知っている中で、最も自分をしっかり持っている人たちでしたが、そのあり方は完全に違いました。もしRtmの脳内を見ることができたら、それは植民地時代のニューイングランドの教会のように見え、もしトレバーの脳内を見ることができたら、それはオーストリアのロココ様式を最悪に派手にしたもののように見えるでしょう。

1996年1月に6店舗で営業を開始しました。もう数か月待ってもよかったぐらいです。私たち自身はもう遅いんじゃないかと心配していたのですが、実際のところは時代を先取りしすぎていたぐらいだったからです。当時、マスコミではeコマースについて多くの話題が出ていましたが、実際にオンラインストアを望んでいる人はそれほど多くありませんでした。[8]

私たちのソフトウェアには大きく分けて3つの部分がありました。私が書いたサイト構築用のエディタ、ロバートが書いたショッピングカート、トレバーが書いた注文や統計情報を管理するマネージャーです。当時、エディタは最高の汎用サイトビルダーの一つでした。私は無駄のないコードを維持していて、ロバートとトレバー以外の他のソフトウェアと統合する必要もなかったので、作業はかなり楽しいものでした。もしこのソフトウェアの作業だけをしていたら、その後の3年間は私の人生の中で最も楽な時期になっていたでしょう。残念ながら、私はもっとたくさんのことをしなければならず、そのすべてがプログラミングよりも苦手なことだったので、結局その後の3年間は人生の中で最もしんどい時期になってしまいました。

90年代後半には、eコマース・ソフトウェアを作っているスタートアップがたくさんありました。私たちは、インターリーフではなく、Microsoft Wordになることを決意しました。つまり、使いやすく、安価なものにするということです。私たちが貧しかったこともいい方向に働きました。そのおかげで、Viawebは私たちが考えていたよりも安いものになったからです。私たちは、小さな店は月100ドル、大きな店は月300ドルという価格設定にしました。この低価格は大きな魅力であり、競合他社からすると気に障るものでしたが、私たちが価格を低く設定したのは、鋭い直観のおかげなどではありませんでした。私たちには、ビジネスで動く金額の相場観というものが完全に欠けていました。月300ドルというのは、私たちにとっては大金だったのです。

他にも、たまたま正解になったことはたくさんあります。例えば、今で言うところの「スケールしないことをする」ということです。しかし、当時は「自分たちがイケてないからユーザーを獲得するために何でもしなくちゃいけない」と表現していました。その中で最も多かったのは、ユーザーのために店舗を作ることでした。私たちのソフトウェアの存在意義は、人々が自分で店を作れるということにあったので、これは特に屈辱的なことのように思えました。しかし、ユーザー獲得のためにはしょうがありません。

私たちは小売業について、知りたいと思っていた以上に多くのことを学びました。例えば、男性のシャツの小さな画像しか置けない場合(現在の基準から言えばすべての画像は小さいものでしたが)、シャツ全体の画像よりも襟のクローズアップ画像の方が良いとかいうことです。私が今でもこのことを覚えているのは、このために男性用シャツの画像を30枚ほど再スキャンすることになったからです。最初のスキャンもよくできていたのに。

当時は何か違うと思いながらやっていましたが、これこそがまさに正解だったのです。ユーザーのために店舗を作ることで、私たちは小売業について学び、またソフトウェアの使用感も知ることができました。私は最初、「ビジネス」に得体の知れなさを感じていて、近づきたくないと思っていました。ビジネスは「ビジネスパーソン」を雇って担当してもらわないといけないと思っていたのです。しかし、ユーザーを獲得するにつれ、私はビジネスパーソンになっていきました。ちょうど、私に子供ができることによって、父親になっていったようなものです。どんなユーザーの願いでも、叶えるために全力を尽くしました。もしかすると、いつかユーザーが増えすぎて、ユーザーの代わりに画像のスキャンをしてあげることなんてできなくなる日が来るのかもしれません。でも、それまでの間は、それ以上に重要なことはないのです。

もう一つ、私が当時理解していなかったことは、成長率がスタートアップの究極のテストであるということです。私たちの成長率は順調でした。1996年末には70店舗くらい、1997年末には500店舗くらいになっていました。私は、重要なのはユーザーの絶対数だと勘違いしていました。それこそが、どれだけ儲かっているかという意味で重要なことで、十分に儲からなければ破産してしまう、と。しかし、長期的に見ると、成長率さえあれば絶対数は何とかなります。もし当時の私たちが、Y Combinatorで私がアドバイスしていたスタートアップの一つだったとしたら、私はこう言うでしょう。「そんなに焦るなよ。うまくやってるじゃないか。年7倍で成長しているんだ。従業員を増やしすぎなければそれでいい。そうすれば、そのうち黒字になる。そうなればこっちのものだ。」

残念ながら、私は従業員を増やしていました。投資家がそうしろと言ったこともありますし、インターネットバブルの頃のスタートアップはみんなそうしていたということもあります。従業員が数人だけの会社は素人っぽく見えたでしょう。そういうわけで、1998年の夏にヤフーに買収されるまで、損益分岐点に達することはありませんでした。つまり、会社の全生涯を投資家のなすがままにしていたということです。私たちも投資家もスタートアップの素人だったので、結果はスタートアップの基準から見ても混乱していました。

ヤフーに買収されたときには、大きな安心感がありました。原則として、当社のViawebの株式は価値がありました。利益を上げ、急速に成長しているビジネスの株として評価されていました。しかし、私にはそうは思えませんでした。私はビジネスの価値をどう評価すべきか見当もつきませんでしたが、数か月に一度のように瀕死の体験をしていることは痛感していました。また、起業してからも、大学院生のころの生活スタイルを大きく変えたわけでもありませんでした。だから、ヤフーに買収されたときは、無一文から大金持ちになったような気分でした。カリフォルニアに行くことになったので、車は1998年式の黄色いVW GTIを買いました。その革張りのシートだけでも、自分の持ち物の中で一番贅沢なものだと思ったのを覚えています。

1998年の夏から1999年の夏までの1年間は、人生で最も生産性の低い年だったのではないでしょうか。当時は気づかなかったのですが、私はViawebの運営に追われて疲れ果てていたのです。カリフォルニアに着いてからしばらくの間は、それまでのように朝の3時までプログラミングを続けようとしていましたが、ヤフーが新しい企業にしては古い体質だったこと、サンタクララの職場がパーティションだらけの不気味な場所だったことに加えて、それまでの疲労も相まって、私はだんだん落ち込んできました。数か月後には、まるでインターリーフで働いていたころのような気持ちになっていました。よくない兆候です。

ヤフーが私たちの会社を買収したときに、たくさんのストックオプションを与えてくれました。当時の私は、ヤフーはあまりにも過大評価されていて、ストックオプションに価値はないだろうと思っていましたが、驚いたことに、翌年には株価が5倍になっていました。私はストックオプションの最初の部分が有効になるまで持ちこたえ、1999年の夏に退職しました。絵を描かなくなって長い時間が経っていたので、何のためにこんなことをしていたのか、私は半分忘れていました。4年間、私の頭の中はソフトウェアと男性用のシャツのことでいっぱいだったのです。でも、これをやってきたのは、金持ちになって絵を描くためだったじゃないか、と私は自分に言い聞かせました。金持ちにはもうなったんだ。だから、絵を描かないと。

辞めると言ったら、私の今後の計画についてヤフーの上司と長い時間話すことになりました。私はどんな絵を描きたいかを全部話しました。そのときは、私にそんなに興味を持ってくれているんだなと感動したものです。今にして思えば、私は嘘をついていると思われていたのでしょう。そのときの私のストックオプションは月に200万ドルくらいの価値がありました。そんな大金を捨てて出て行くとしたら、何か新しいスタートアップを始めるために決まっているし、そうなればスタッフを引き抜くかもしれない、というわけです。この頃はインターネットバブルの絶頂期で、ヤフーはその震源地でした。上司は当時億万長者でした。そういう時期に退職して新しいスタートアップを立ち上げるというのは、彼には頭がおかしいぐらい野心的な計画に見えたはずですが、私はそういうことをやりかねないと思われていたのです。

しかし、私が辞める理由は本当に絵を描くためで、辞めた後すぐに描き始めました。もう時間を無駄にできません。金持ちになるために4年もの時間を使ってしまったのですから。今の私が、会社を売却して辞めようとしている創業者と話をするとき、私のアドバイスはいつも同じです。休みを取りなさい、と。それは私がすべきことでした。どこかに行って、1、2か月間何もしないでいるべきだったのです。しかし、その考えは当時の私には思いつきませんでした。

そういうわけで、絵を描こうとしたのですが、私にはエネルギーも野心もないような気がしました。問題の一部は、カリフォルニアに知り合いが少なかったことです。私はサンタクルス山脈に家を買ったことで、この問題をさらに悪化させました。その家は眺めはすばらしかったのですが、周り数キロに何もなかったのです。数か月は我慢したものの、結局絶望のあまりニューヨークに戻ることにしました。レントコントロールについて知らない人は、私がまだアパートを借りているままで、その内部は昔の生活の墓のように封印されていたと聞いたら驚くでしょう。少なくともニューヨークにはイデルがいます。それに、他にも絵を描こうとしている人がいるはずでした。私自身は誰もそういう人を知らなかったのですが。

ニューヨークに戻ってからは、昔の生活を再開しました。違うのは、私はお金持ちになっていたということだけです。不思議な感覚でした。私は昔のパターンをすべて再開したのですが、昔はなかったドアがいくつも現れていました。歩き疲れたときは、手を挙げるだけで(雨が降っていなければ)タクシーが止まってくれます。魅力的な小さなレストランの前を通ると、中に入ってランチを注文することができます。しばらくはそれでテンションが上がっていました。絵を描くのもうまくいき始めました。新しい静物画の実験をしてみました。昔ながらの方法で1枚の絵を描き、それを写真に撮ってキャンバスにプリントし、それを下絵にして、同じ物体(腐っていないことを祈りつつ)を対象にして2枚目の静物画を描くというものです。

そうしながら、私は購入するアパートを探していました。今では、どういう地域に住むかを選ぶことができるのです。ケンブリッジのような場所はニューヨークのどこにあるのだろう? 私は自分自身とさまざまな不動産業者に尋ねました。実際にケンブリッジに時々行っていたこともあり、そんな場所はないということがだんだんわかってきました。はぁ。

この頃、2000年の春、私はあるアイデアを持っていました。Viawebでの経験から、ウェブアプリがこれから「来る」ことは明らかでした。じゃあ、ウェブアプリを作るためのウェブアプリを作るというのはどうだろう? 人々にブラウザを通して私たちのサーバー上でコードを編集させて、その結果として得られるアプリケーションをホストするというのは?[9] APIコールをするだけで、これらのアプリケーションが使用するあらゆる種類のサービスをサーバー上で実行することができます: 電話の送受信、画像の操作、クレジットカードの支払いなど。

私はこのアイデアに興奮して、他のことは考えられなくなりました。これが来たるべき未来なのは明らかだと思ったのです。特に新しい会社を立ち上げたいとは思っていませんでしたが、誰かがこのアイデアを具現化しなければならないことは明らかだったので、ケンブリッジに引っ越して会社を立ち上げることにしました。ロバートを誘って一緒に仕事をしたいと思っていたのですが、そこで問題が発生しました。ロバートは今ではMITのポスドクになっていたのです。前回私が彼を誘って私の計画の一つに取り組ませた時には大金を稼ぐことになりましたが、同時に膨大な時間をかけることにもなりました。だから、彼は、よさげなアイデアだとは認めてくれたものの、一緒にやるのは断固として拒否しました。

ふむ。じゃあ、自分でやろうか。私はViawebで働いていたダン・ギフィンと、夏休みのアルバイトを探していた2人の学部生をリクルートして、20社ほどの会社といくつかのオープンソースプロジェクトだけの価値があるソフトウェアを構築する作業に取りかかりました。アプリケーションを定義するための言語は、もちろんLispの方言になります。しかし、私は一般の人たちにあからさまなLispを吹き込めると思うほど甘くはありませんでした。Dylanのように、括弧を隠すことにしました。

その頃までには、Viawebのような会社には、「アプリケーション・サービス・プロバイダ」(ASP)という名前ができていました。この名前は、それほどしないうちに「ソフトウェア・アズ・ア・サービス」に取って代わられることになるのですが、当時はまだ使われていたので、私はこの新会社にそれにちなんだ「Aspra」という名前をつけることにしました。

私はアプリケーションビルダーの開発に携わり、ダンはネットワークインフラストラクチャの開発に携わり、2人の学部生は最初の2つのサービス(画像と電話)の開発に携わりました。しかし、夏の半ば頃、私は本当に会社を経営したいとは思っていないことに気づきました。特に、大きい会社は。この会社はどうやら大きくする必要がありそうでした。Viawebを始めたのは、お金が必要だったからというそれだけでした。もうお金の必要はないのに、私はなぜこんなことをしているのだろう? もしこのビジョンが会社として実現されなければならないのなら、ビジョンなんてクソくらえだ。私は、オープンソースプロジェクトとしてできるサブセットを作ることにしました。

驚いたことに、この作業に費やした時間は無駄にはなりませんでした。Y Combinatorを始めてからは、この新しいアーキテクチャの一部に取り組んでいるスタートアップによく遭遇するようになったので、それについて考えたり、その一部を書こうとしたりすることに多くの時間を費やしたことはとても有益でした。

私がオープンソースプロジェクトとして構築したサブセットは新しいLispで、もう括弧を隠す必要もありませんでした。多くのLispハッカーが新しいLispを作ることを夢見ていますが、その理由の一つには、この言語の特徴として方言があるということがありますし、また、私たちはみな、既存の方言が達していないような、プラトニックな形のLispというものを頭の中に持っているからだと思います。少なくとも私は持っていました。夏の終わりに、ダンと私は、私がケンブリッジに買った家で、この新しいLispの方言(Arcという名前にしました)を作ることに切り替えました。

翌年の春、衝撃的なことがありました。私はLispのカンファレンスに呼ばれ、ViawebでどのようにLispを使ったかについて話しました。その後、私はこの講演のPostScriptファイルを paulgraham.com にオンラインで公開しました。このサイトを作ったのはViawebを使い始める数年前でしたが、特に何にも使っていませんでした。そのファイルは一日で30,000ページビューを記録しました。一体何が起こったのでしょうか? 参照元のURLを見ると、誰かがそれをSlashdotに投稿したようでした。[10]

うわー、読者がいるんだなーと思いました。何かを書いてウェブに載せれば、誰でも読める。今では当たり前のように思えるかもしれませんが、当時は意外だったのです。活字時代には、読者に届けるには狭い道しかなく、それは編集者と呼ばれる凶暴なモンスターに守られていました。何か書いたものに読者を獲得する唯一の方法は、本として出版されるか、新聞や雑誌に掲載されることでした。今では、誰でもどんなものでも公開できるのです。

これは1993年から原理的には可能になっていましたが、まだ多くの人がそれに気づいていませんでした。私はその間のほとんどの期間、ウェブのインフラ構築に深く携わり、ライターとしても活動していましたが、そのことに気がつくのに8年もかかっていました。気づいた後も、そのことの意味を理解するのにはさらに数年かかりました。それは、まったく新しい世代のエッセイが生まれることを意味していました。[11]

活字時代には、エッセイを出版するルートはないに等しいものでした。ニューヨークの有名人が集まるパーティーに列席するような誰もが認める一部の思想家を除けば、エッセイの出版が許されていたのは、自分の専門分野について書いている専門家だけでした。公開する方法がなかったために書かれずに終わったエッセイが世の中にはたくさんあったのです。もう状況は変わりました。そして、私はエッセイを書くことにしました。[12]

今までいくつかの仕事をしてきましたが、何に取り組むかについてわかるようになる転機があったとしたら、それはエッセイをネットで公開し始めたときでした。そのときから、他に何をするにしても、必ずエッセイも書くことにしました。

オンラインエッセイは、最初は取るに足りないメディアだと思われるだろうとわかっていました。社会的には、それはニューヨーカー誌に載っている上品で美しく活字に組まれた文章よりも、ジオシティーズのサイトに投稿される異常者のたわごとに近いものに見えたことでしょう。しかし、その頃には、私はそれが悪い兆候ではなく、良い兆候であると悟っていました。

私の人生の中で最も顕著なパターンの一つは、少なくとも私にとっては、権威のないものに取り組むことがどれほどうまくいっていたかということです。静物は常に絵画の中で最も格式の低いものでした。ViawebもY Combinatorも、始めた頃はダサいと感じていました。今でも、知らない人に何を書いているのかと聞かれ、自分のサイトで公開するエッセイだと説明すると、理解できないものを見るような目で見られます。Lispは、知的にはラテン語のように一流のものなのですが、これもヒップな感じがします。

権威のない仕事に本質的な良さがあるというわけではありません。しかし、権威がない作業なのにあなたがそれに惹かれているとしたら、それは本物の何かがあるというしるしで、またあなたが正しい種類の動機を持っているというしるしでもあります。不純な動機は野心家にとって大きな危険です。人に道を踏み外させるようなものがあるとしたら、それは他人にいい格好をしたいという欲求です。つまり、権威がない仕事をしているということは、あなたが正しい道を歩んでいるということを保証するわけではありませんが、少なくとも、最も一般的なタイプの間違った道を歩んでいるわけではないということは保証してくれるのです。

それから数年の間に、私はあらゆる種類の異なるトピックについてたくさんのエッセイを書きました。オライリーはそれをまとめた本を出版してくれました。その本の名前は、その中のエッセイの一つから取った『ハッカーと画家』です。他にも、スパムフィルターの仕事をしたり、絵を描いたりもしました。毎週木曜日の夜に友人グループのために料理を作っていたので、大人数向けの料理の作り方を身につけました。ケンブリッジにある元キャンディー工場(後にポルノスタジオになったとか)のビルをオフィスとして使うために購入しました。

2003年10月のある夜、私の家で大きなパーティーが開かれました。それは友人で木曜日の夕食会の参加者でもあるマリア・ダニエルズが考え出したものでした。3人の別々のホストが、それぞれの友人を1つのパーティーに招待するというものです。つまり、ゲストはみんな、他のゲストの3分の2を知らないものの、たぶん好きになれるかもしれないということです。ゲストの一人は、私が知らない人でしたが、後にとても好きになることになります。それがジェシカ・リビングストンという女性でした。数日後、私は彼女をデートに誘いました。

ジェシカはボストンの投資銀行でマーケティングを担当していました。この銀行はスタートアップを理解していると思っていたのですが、それからの1年間、彼女がスタートアップの世界で私の友人に会ううちに、現実がまったく違うことに驚くことになりました。また、彼らの話が波瀾万丈であることにも驚きました。そこで彼女は、スタートアップの創業者へのインタビューをまとめた本を出版することにしました。

銀行が経営難に陥り、従業員の半分を解雇しなければならなくなったとき、彼女は新しい仕事を探し始めました。2005年の初め、彼女はボストンのVC会社のマーケティングの仕事のために面接を受けました。採用の決定までには数週間かかったので、その間に私はベンチャーキャピタルについて改善の必要があるすべてのことについて彼女に話し始めました。一握りの巨大な投資ではなく、より多くの小規模な投資を行うべきだとか、MBA持ちではなく、より若い技術畑の起業家に資金を提供すべきだとか、起業家をCEOとして残すべきだとか、そういったことです。

私がエッセイを書ためにいつも使っているコツの一つは、講演をすることです。人前に立って、時間を無駄にしないような話をしなければならないという状況は、想像力に大きなブーストをかけてくれます。ハーバード・コンピュータ・ソサエティーという学部のコンピュータ・クラブから講演を頼まれたとき、私はスタートアップの始め方を話すことにしました。そのことで、彼らは我々が犯した最悪の過ちを避けられるかもしれません。

この話をする中で、シード資金の最高の供給源は成功したスタートアップの創業者であると話しました。そうすれば、アドバイスももらえるからです。そう話すと、学生たちはみんな期待するような目で私を見ているような気がしました。メールボックスにビジネスプランが殺到するかもしれないと思うとぞっとして、「でも、ぼくには聞かないでね!」ととっさに口走り、話を続けました。しかし、その後、エンジェル投資を先延ばしにするのはもうやめようと思いました。ヤフーに買収されてからずっとやろうと思っていたのですが、7年経った今でもエンジェル投資は一度もしていませんでした。

その間、私はロバートとトレバーと一緒に仕事ができるプロジェクトを考えていました。彼らとまた一緒に仕事をしたくて、何か協力できることがあるはずだと思っていました。

3月11日、ジェシカと私がガーデン通りとウォーカー通りの角で夕食を食べ、歩いて帰宅していたとき、この三つの流れが一つになりました。決断に時間がかかるVCはもういい。自分たちの投資会社を立ち上げて、話していたアイデアを実際に実行しよう。私が出資して、ジェシカは仕事を辞めて働く。ロバートとトレバーにもパートナーになってもらう。[13]

またしても無知が我々に有利に働きました。エンジェル投資家になるにはどうしたらいいのか全く分からなかったし、2005年のボストンには見習うべきロン・コンウェイズもいませんでした。だから、当たり前のように思える選択をしただけで、いくつかのことは斬新なものになりました。

Y Combinator(YC)には複数の要素がありますが、一度に全てを考え出したではありません。最初に手に入れたのは、エンジェル企業になることでした。当時、「エンジェル」と「企業」という2つの言葉は一緒には使われていませんでした。VC企業は、投資を行うことを仕事としている人がいる組織的な会社でしたが、100万ドル規模の大規模な投資しかしていませんでした。また、小規模な投資を行うエンジェルもいましたが、彼らは通常は他のことに集中していて、副業として投資を行っている個人でした。そして、どちらも始めたばかりの創業者を十分に助けてくれませんでした。私たちは、自分たちがどれだけ無力だったかを覚えていたので、創業者がどれだけ無力であるかを知っていました。例えば、ジュリアンが私たちのためにしてくれたことで、魔法のように思えたことのひとつは、私たちの会社を設立を助けてくれたことでした。私たちは、かなり難しいソフトウェアを書くことは問題なくできたのですが、実際に法人化して、細則や株式などの細々としたことを片付けるというのは、どうすればいいのか見当もつかなかったのです。私たちがやろうとしたのは、シード投資だけではなく、ジュリアンが私たちのためにしてくれたことをすべてスタートアップのためにしてあげるということでした。

YCはファンドとして組織されていませんでした。運営にかかるお金は十分に少なかったので、自分たちのお金で資金を調達したのです。99%の読者はここの部分を何気なく読み飛ばしたでしょうが、プロの投資家は「おー、つまりすべてのリターンを得られるってことか」と考えているはずです。しかし、繰り返しになりますが、これは私たちが特別な洞察力を持っていたからではありません。私たちはVC会社がどのように組織されているかを知らなかったのです。資金調達をしようとは思いつかなかったし、もししようととしても、どこから手をつけたらいいのかわからなかったでしょう。[14]

YCの最大の特徴は、年に2回、一度にたくさんのスタートアップに資金を提供し、その後3ヶ月間は集中的に彼らを支援することに専念するというバッチモデルです。この部分は、私たちが投資に対して無知だったためにたまたま発見したのですが、それも無意識というより意識的なものでした。私たちは投資家としての経験を積む必要がありました。一度にたくさんのスタートアップ企業に資金を提供するよりも良い方法はないかと考えたのです。私たちは、学部生が夏の間にテック企業で臨時の仕事を得ていることを知っていました。じゃあ、彼らがその代わりにスタートアップを立ち上げるサマープログラムを企画するというのはどうだろう。これなら、ある意味ででっち上げの投資家であることに罪悪感を感じないでしょう。彼らも同じような意味ででっち上げの創業者なのですから。こうすると、大金は稼げないかもしれませんが、私たちは少なくとも投資家としての練習ができますし、彼らにとってもマイクロソフトで働くよりも面白い夏を過ごすことができるでしょう。

私たちはケンブリッジにある私が所有していたビルを本社として使うことにしました。週に一度、火曜に(木曜には木曜ディナーをしていたので)みんなでそこで夕食をとり、夕食後にはスタートアップの専門家を呼んで講演をしてもらいました。

学部生がその時期に夏の仕事を決めているということを私たちは知っていたので、数日のうちにサマー・ファウンダー・プログラム(夏季起業プログラム、SFP)という名前の何かをでっち上げ、私のサイトに学部生の応募を募る告知を掲載しました。エッセイを書くことが投資家が言うところの「ディールフロー」を得る手段になるとは想像もしていませんでしたが、それが完璧なフロー源になることがわかりました[15]。サマー・ファウンダー・プログラムには225人の応募がありましたが、その多くがすでに卒業した人や、その春に卒業しようとしている人たちからの応募だったのには驚きました。すでにこのSFPというものは、私たちが意図していたよりも真剣なものになってきていました。

私たちは225のグループのうち約20のグループに個人面接を受けてもらい、その中から8つのグループを選んで資金を提供しました。彼らはすごいグループでした。第一期にはredditや、Twitchを設立したジャスティン・カンとエメット・シアー、当時すでにRSS仕様の執筆を手伝ってくれていて数年後にオープンアクセスの殉教者となったアーロン・スワーツ、そして後にYCの2代目社長となるサム・アルトマンが含まれていました。第一期がこれほど優れていたのは、完全に運が良かったというわけではないと思います。マイクロソフトやゴールドマン・サックスのようなちゃんとした場所での夏の仕事ではなく、サマー・ファウンダーズ・プログラムのような奇妙なものに申し込むには、かなり大胆である必要があったでしょうから。

スタートアップのための契約は、ジュリアンとの契約(10%で10,000ドル)と、ロバートの言うところのMITの大学院生が夏の間に稼ぐ金額(6,000ドル)の組み合わせで決めました。創業者1人につき6,000ドルの投資、つまりよくある2人創業者の場合は12,000ドルで、見返りは6%です。これはフェアなものだったはずです。私たち自身が得た契約より2倍もいい契約なのですから。さらに、最初の夏は本当に暑かったので、ジェシカは創業者に無料のエアコンを持ってきました。[16]

かなり早い段階で、スタートアップ支援の規模を拡大する方法を偶然見つけていたことが分かりました。一括でスタートアップに資金を提供することは、多くのスタートアップに一度に対応できるという意味で、私たちにとって便利なことでしたが、同期グループの一部であることはスタートアップにとっても良いことでした。これにより、創業者が直面する最大の問題の一つである孤立感が解消されます。スタートアップにとっては、ただ創業者仲間がいるというだけでなく、あなたが直面している問題を理解し、どのようにその問題を解決しているのかを教えてくれる創業者仲間ができることになります。

YCが成長するにつれ、私たちは規模の大きさの他の利点に気付き始めました。卒業生、特に同じ立場にあった同期の卒業生同士は、互いに助け合う緊密なコミュニティになっていました。また、スタートアップ企業がお互いの顧客になりつつあることにも気付きました。以前は冗談で「YCのGDP」と呼んでいましたが、YCが成長するにつれ、これは冗談ではなくなってきています。今では、多くのスタートアップ企業が最初の顧客をほぼすべて同期の中から獲得しています。

私はもともとYCをフルタイムの仕事にするつもりはありませんでした。ハックすること、エッセイを書くこと、そしてYCに取り組むことの3つをやろうと思っていました。YCが成長し、私がYCに興奮していくにつれて、YCは私の注意力の3分の1以上を占めるようになりました。しかし、最初の数年間はまだ他のことに取り組むことができました。

2006年の夏、ロバートと私は新しいバージョンのArcに取り組み始めました。これはSchemeにコンパイルされていたので、かなり高速に動作しました。この新しいArcをテストするために、私はHacker Newsを書いてみました。元々はスタートアップ創業者のためのニュースアグリゲータで、 Startup Newsという名前だったのですが、数ヶ月後にはスタートアップのニュースだけを読むのに飽きてしまいました。また、私たちがリーチしたいのはスタートアップ創業者ではなく、未来のスタートアップ創業者たちでした。そこで私は名前をハッカーニュース(HN)に変え、トピックも知的好奇心を刺激するものなら何でもいいということにしました。

HNはYCにとっては間違いなく良いものでしたが、私にとっては圧倒的に最大のストレス源でもありました。もしも、私がしなければならなかったことが創業者の選定と支援だけだったら、人生はとても楽だったでしょう。そう考えると、HNは間違いだったということになります。仕事における最大のストレス源は、少なくとも仕事の核心に近いものであるべきです。当時の私は、例えて言えば、マラソンを走っているときに、走ることそのものよりも、靴のサイズが合わずに水ぶくれができていることによって苦しんでいる人のようなものでした。YC中に緊急の問題に対処していたとき、それは約60%の確率でHN関係のもので、HN関係以外のことは全部合わせても40%でした。[17]

HNと同様に、私はYCの内部ソフトウェアをすべてArcで書いていました。しかし、Arcでの作業はかなりの量を続けていたものの、Arcそのものに手を加えることはだんだん控えるようになりました。時間がなかったということもあり、また、これだけのインフラがすべて依存している言語をいじることに魅力を感じなくなってしまったということもありました。そういうわけで、私の3つのプロジェクトは、エッセイを書くこととYCに取り組むことの2つに絞られてしまいました。

YCは、これまでやってきた他の仕事とは違いました。何をやるかを自分で決めるのではなく、問題のほうからこちらに降りかかってきました。半年ごとにスタートアップの新入生が現れ、彼らの問題が何であれ、それは私たちの問題になりました。彼らの問題は非常に多様で、優秀な創業者たちは非常に有能だったので、非常に魅力的な仕事でした。可能な限り短い時間でスタートアップについてできる限りのことを学ぼうとしていたのであれば、これ以上の方法はありませんでした。

この仕事には好きではない部分もありました。創業仲間同士の喧嘩、嘘を見抜くこと、スタートアップを荒らした人との喧嘩などなど。でも、嫌なことでも頑張りました。かつてケビン・ヘイルが企業について言っていた、「ボスよりも一生懸命働く人はいない」という言葉が脳裏から離れませんでした。彼はこの言葉を「ボスは誰よりも一生懸命働いている」と「ボスは誰よりも一生懸命働くべきだ」という両方の意味で使っていて、私が恐れたのは後者でした。私はYCを良くしたいと思っていたので、自分の頑張りが他の人の頑張りの上限になるのであれば、自分が頑張らないといけないと思っていました。

2010年のある日、ロバート・モリスがインタビューのためにカリフォルニアを訪れていたとき、驚くべき行動に出ました。求められてもいないのに、私にアドバイスをしたのです。私が覚えている限りでは、彼がそんなことをしたのは、それまでに一度だけです。ある日、Viawebで、私が腎臓結石で床に屈んでいたとき、彼が私を見て、病院に連れて行ってやろうかと提案してくれたのです。Rtmが求められていないアドバイスをするには、それだけの事態が必要だったのです。そういうわけで、そのときの彼の正確な言葉をはっきりと覚えています。「なあ、クールなことをしたのはY Combinatorが最後だった、ということにならないように気をつけたほうがいいんじゃないか」。

そのときは彼がそれをどういうつもりで言ったのか理解できませんでしたが、次第に、それは辞めたほうがいいという意味だとわかってきました。変なアドバイスだと思いました。YCは絶好調だったのですから。しかし、Rtmが間違っているなんて、Rtmがアドバイスをすることよりももっとありそうもないことです。そこで考えてみました。確かに、今の私の路線のままで行くと、私がやった最後のことはYCだったということになるでしょう。というのは、YCは私の関心のほとんどを占めていたからです。YCはすでにArcを押しのけていて、エッセイも押しのけつつありました。YCが私のライフワークでないのであれば、いつかは辞めなければなりません。そして、YCは私のライフワークではありませんでした。つまり、いつかは辞めるということです。

2012年の夏、母は脳梗塞で倒れ、原因は大腸がんによる血栓と判明しました。脳卒中でバランスを崩してしまい、老人ホームに入れられてしまいましたが、母はどうしても退院して家に帰りたいと言っていたので、姉と私はその手助けをしたいと思っていました。私は定期的にオレゴン州まで飛行機で彼女を訪ねていましたが、飛行機の中では考える時間がたくさんありました。そのうちの中の1回で、私はYCを他の人に譲る準備ができていることに気がつきました。

私はジェシカに社長になりたいかどうか尋ねましたが、彼女は断ったので、サム・アルトマンに声をかけてみることにしました。ロバートとトレバーと話し合って、完全な政権交代をすることに合意しました。それまでYCは、私たち4人が始めた元々の有限責任会社に支配されていました。しかし、私たちはYCを長く存続させたいと考えていたので、そのためには創業者が管理し続けるわけにはいきませんでした。だから、サムがイエスと言ったら、YCの再編成を彼に任せることにしたのです。ロバートと私は引退し、ジェシカとトレバーは普通のパートナーになることになります。

サムにYCの社長になりたいかどうか尋ねたとき、最初はノーと言っていました。彼は原子炉を作るために起業したいと言っていました。しかし、私は勧誘を続け、2013年10月に彼は最終的に同意しました。私たちは、2014年冬期から彼が引き継ぐことを決めました。2013年の残りの期間、私はYCの運営を徐々にサムに任せていっていましたが、これはサムが仕事を覚えられるようにするためと、癌が再発した母のことを考えていたからです。

母は2014年1月15日に亡くなりました。いずれこうなることはわかっていましたが、それでもつらいことでした。

私は3月までYCで働き続け、その期のスタートアップがデモデイを乗り切るのを支援し、その後、私はほぼ完全に身を引きました。(今でも卒業生や、私の興味のあることに取り組んでいる新しいスタートアップとは話をしていますが、それは週に数時間だけです)。

さて、次は何をすればいいのでしょうか。Rtmのアドバイスには、そのようなことは何も含まれていませんでした。私は全く違うことをしたいと思っていたので、絵を描くことにしました。本気でやったらどれだけ上手くなるか見てみたかったのです。それで、YCをやめた翌日から絵を描き始めました。私の腕は錆びついていたし、またさまになるようになるには時間がかかりましたが、少なくとも完全に集中していました。[18]

2014年の残りの時間のほとんどを絵を描くことに費やしました。こんなに途切れることなく作業ができるようになったのは初めてで、昔よりも上手になることができました。十分とは言えませんが、うまくはなったのです。そして11月、絵を描いている最中に、私はやる気を使い果たしました。それまでは自分が描いている絵がどんな風になるのかいつも待ちきれない思いだったのですが、この絵を仕上げるのが急に単純作業のように思えてきたのです。だから、それをやめて筆を洗って、それ以来絵は描いていません。少なくとも、これまでのところは。

なんだか根性なしな感じがしますよね。でも、関心はゼロサムゲームです。あなたが何に取り組むかを選択することができ、そこであなたが自分にとって最高のものではない(または少なくとも良いものではない)プロジェクトを選んだとしたら、それは最高のプロジェクトの邪魔になるということです。それに、私はもう50歳で、やんちゃをするにも機会費用がかかります。

私は再びエッセイを書き始め、それから数か月の間に新しいエッセイをたくさん書きました。スタートアップに関するものではないものもいくつか書きました。そして2015年3月、私は再びLispに取り組み始めました。

Lispの特徴的なところは、そのコアがそれ自体がインタプリタを書くことで定義された言語であるということです。元々は普通の意味でのプログラミング言語として意図されたものではありませんでした。チューリングマシンの代替となる計算の形式的なモデルとして意図されていたのです。ある言語で、その言語自体のインタプリタを書きたいと思ったら、必要最低限の定義済み演算子のセットはどのようなものになるでしょうか? ジョン・マッカーシーが発明し、というよりも発見したLispが、その質問への答えです。[19]

マッカーシーは、彼の大学院生であるスティーブ・ラッセルが提案するまで、このLispがコンピュータのプログラミングにも使えることに気づきませんでした。ラッセルはマッカーシーのインタプリタをIBM 704の機械語に翻訳し、その時点からLispは普通の意味でのプログラミング言語としても使われるようになりました。しかし、計算のモデルとしてのその起源は、他の言語には真似のできない力強さと優雅さを与えてくれました。私はこのことに惹かれて大学に入ったのですが、当時はその理由がよくわかりませんでした。

マッカーシーの1960年のLispは、Lispの式を解釈するだけのものでした。それはプログラミング言語に必要な多くのものが欠けていました。そのため、それらは追加される必要がありました。しかし、その後追加されたものは、マッカーシーの元々の公理的アプローチで定義されていませんでした。当時はそれは実現不可能だったでしょう。マッカーシーはプログラムの実行を手でシミュレーションすることでインタプリタをテストしていました。しかし、この方法でテストできるインタプリタの限界にはすでに近づいていました。実際、そのインタプリタにはマッカーシーが見逃していたバグがありました。もっと複雑なインタプリタをテストするには、それを実行する必要があり、当時のコンピュータは十分な性能を持っていませんでした。

今では、コンピューターには十分な性能があります。つまり、マッカーシーの公理主義的アプローチを維持したまま、完全なプログラミング言語を定義できるわけです。マッカーシーのLispに加えたすべての変更が発見性を維持する変換である限り、原理的にはこのような品質を持つ完全な言語を完成させることができます。もちろん、言うは易しというものなのですが、原理的に可能なんだったら、やってみてもいいんじゃないでしょうか? ということで、私は挑戦してみることにしました。2015年3月26日から2019年10月12日まで、4年かかりました。正確に目標が決まっていたのが幸いでした。そうでなければ、これだけ長く続けるのは大変だったでしょう。

私はこの新しいLispであるBelを、それ自体はArcで書きました。これは矛盾しているように聞こえるかもしれませんが、これは私がこれを動かすために、どのような策略を用いなければならなかったかを示しています。ひどいハックの数々を駆使することによって、実際に動作する、自分自身で書かれたインタプリタというものに十分近いものを作ることに成功しました。高速ではありませんが、テストには十分な速度です。

この期間のほとんどの間、私はエッセイを書くことを自分に禁じなければなりませんでした。2015年後半、私は3か月間エッセイを書いていましたが、Belの作業に戻ったとき、私はコードをほとんど理解することができませんでした。コードの書き方が悪かったからというよりも、問題が非常に複雑だからです。自分自身で書かれたインタプリタについて作業していると、どのレベルで何が起こっているのかを追跡するのは難しいし、エラーを捕捉した時点では実質的に暗号のようになっているかもしれません。

だから、Belが終わるまでエッセイはお預けにしました。でも、Belの作業をしていた間は、ほとんど誰にもそれについて話しませんでした。そういうわけで、その時期は何年も何もしていないように思われていたかもしれません。実際は、かつてなかったほど熱中して作業していたのですが。時折、何時間も恐ろしいバグと格闘した後、TwitterやHNをチェックすると、「ポール・グレアムってまだプログラミングしてるの?」と誰かが尋ねているのを目にすることがありました。

Belの作業は大変でしたが、満足のいくものでした。私はそれに集中して取り組んだので、いつでも頭の中にある程度のコードの塊があって、そこに書き加えていくことができました。2015年の晴れた日に子供たちを海岸に連れて行き、潮溜まりで遊ぶ子供たちを見ながら、継続に関わるいくつかの問題を処理する方法を思いついたことを覚えています。人生がうまくいっているように感じました。これを覚えているのは、それまでずっとそういう経験をしてこなかったということに気づいて、ショックだったからです。しかし、幸いなことに、その後数年間はそういう経験が何度もありました。

2016年の夏、私たちはイギリスに引っ越しました。私たちは子供たちに他の国での生活がどのようなものであるかを見てほしいと思っていましたし、私は生まれつきイギリス国籍を持っていたので、それは当然の選択であるように思えました。最初は1年だけのつもりでしたが、イギリスが気に入ったので今でも私たちはそこに住んでいます。だからBelのほとんどはイギリスで書かれたことになります。

2019年の秋、ついにBelは完成しました。マッカーシーの元祖Lisp同様、実装というよりは仕様に近いものです。しかし、マッカーシーのLispのように、それは仕様をコードとして表現したものなのです。

またエッセイが書けるようになったので、積み重なっていたトピックをまとめて書きました。2020年までエッセイを書き続けてきましたが、それ以外にも取り組めそうなことについて考えるようになりました。何をどうやって選べばいいのでしょうか。さて、過去の私はどうやって取り組むべきものを選んでいたのでしょうか? その疑問に答えるために自分のためにエッセイを書いたのですが、その答えがあまりにも長くてめちゃくちゃなものになってしまったことに驚きました。この人生を経験してきた自分でさえ驚くのだから、おそらく他の人にも興味を持ってもらえるだろうし、同じようにめちゃくちゃな人生を送っている人たちの励みになるのではないでしょうか。そこで、他の人にも読んでもらえるように、もっと詳しいバージョンを書いてみることにしました。それがこのエッセイです。

脚注

[1] 私の経験は、コンピュータの進化の段階をひとつスキップしています:対話型OSを搭載したタイムシェアリングマシンです。私はバッチ処理からマイクロコンピュータに直接移ったので、マイクロコンピュータがよりエキサイティングに感じられました。

[2] 抽象的な概念を表すイタリア語の単語は、ほぼ常に英語の同源語から予測することができます(たまに、polluzioneのような罠がありますが)。異なるのは日常的な単語です。だから、抽象的な概念をいくつかの簡単な動詞と組み合わせれば、少しのイタリア語でもけっこううまくやっていけます。

[3] 私はサンフェリーチェ広場4番地に住んでいたので、アカデミアまでの道のりは、ピッティを通り、橋を渡り、オルサンミケーレを通り、ドゥオーモと洗礼堂の間を通り、リカソーリ通りを上ってサン・マルコ広場へと、フィレンツェの古い街並みをまっすぐに歩いていました。誰もいない暗い冬の夜から、観光客でごった返している夏の炎天下の日まで、あらゆる状態でフィレンツェの街並みを見てきました。

[4] もちろん、あなたがその気になれば、またモデルの協力が得られれば、人物を静物のように描くこともできます。そういう肖像画は静物画の頂点と言ってもいいでしょう。長く座っていると、座っている人の表情が痛々しいものになりがちですが。

[5] インターリーフは、頭のいい人材を擁し、印象的な技術を構築していたにもかかわらず、ムーアの法則に押しつぶされてしまった多くの企業のひとつです。1990年代には、コモディティ(すなわちインテル)プロセッサのパワーが指数関数的に成長したことで、ハイエンドの特殊用途のハードウェアとソフトウェアの会社をブルドーザーのように押しつぶしてしまいました。

[6] RISDのシグネチャースタイルを追求する人たちは、特に金目当てでそうしていたというわけではありませんでした。芸術の世界では、お金とクールさは密接に結びついています。高価なものはクールとみなされるようになり、クールとみなされるものはすぐ同様に高価になります。

[7] 厳密には、このアパートはレントコントロールではなくレントスタビライズドというものです。この点を知っている、あるいは気にするのはニューヨーカーぐらいでしょうけど。いずれにせよ、市場価格の半額以下で、本当に安かったということです。

[8] ほとんどのソフトウェアは、完成すればすぐに立ち上げることができます。しかし、そのソフトウェアがオンラインストアビルダーで、あなたがストアをホストしていて、またあなたにまだ誰もユーザーがいないという状況であれば、その様子が痛々しいぐらいに明らかになっていまます。それで、公開する前に、まずは内輪で立ち上げることにしました。初期ユーザーを募集して、彼らの店がちゃんとした見た目になるようにしたのです。

[9] Viawebにはコードエディタがあり、ユーザーが独自のページスタイルを定義することができました。ユーザーは意識していませんでしたが、裏ではLisp式を編集していたのです。しかし、これはアプリエディタではありませんでした。なぜなら、コードが実行されるのはマーチャントのサイトが生成されるときであり、買い物客がサイトを訪問したときに実行されるのではなかったからです。

[10] これは、今ではおなじみとなった経験の最初の一回で、次に起こったこともそうでした。コメントを読むと、怒っている人がいっぱいいたのです。どうしてLispが他の言語より優れているなんて言えるんだ? 全部チューリング完全なんじゃないのか? 私が書いたエッセイへの反応を見ている人たちは、私に同情することがありますが、そういうときは誇張でなく、最初からずっとこうだったと答えています。これはエッセイを書く以上避けられないことです。エッセイは、読者がまだ知らないことを伝えるべきなのですが、そういうことを言われるのを嫌う人もいるのです。

[11] 90年代には、もちろん人々はインターネットにたくさんのものを載せていましたが、何かをオンラインにすることと、オンラインで公開することは同じではありません。オンラインで公開するというのは、オンライン版を正式版(少なくとも、正式版のひとつ)として扱うということです。

[12] ここには、Y Combinatorでの経験が教えてくれる一般的な教訓があります。習慣は、その原因となった制約がなくなった後も、長い間、あなたを縛り続けるということです。VCの慣習は、かつては、エッセイの出版に関する慣習のように、実際の制約に基づいていました。スタートアップは、かつては今よりもはるかにお金がかかるもので、その分だけ希少なものでした。今では、スタートアップは安くて普通のものになりましたが、VCの慣習は古い世界を反映したままでした。それは、エッセイを書く慣習が印刷時代の制約をまだ反映していたのと同じようなことです。

これは、自分の頭で考えられる(つまり、慣習の影響を受けにくい)人は、急速な変化の影響を受ける分野(慣習が時代遅れになりやすい)では有利になるということです。

しかし、ここで興味深い点があります:どの分野が急速な変化の影響を受けるかを常に予測することはできません。ソフトウェアやベンチャーキャピタルが影響を受けるのは明らかですが、エッセイの執筆が影響を受けるとは誰が予想したでしょうか?

[13] Y Combinatorは元々の名前ではありませんでした。最初はケンブリッジ・シードと呼ばれていました。しかし、シリコンバレーで誰かが私たちをコピーした場合に備えて、地域に由来する名前をつけたくなかったので、ラムダ計算で最もクールなトリックの一つであるYコンビネーターにちなんで名前を変更したのです。

オレンジ色にしたのは、オレンジが一番暖かい色であるのと、VCがどこも使っていなかったからです。2005年には、VCはどこも、マルーン、ネイビーブルー、フォレストグリーンなどの地味な色を使っていました。それは、VCが見ていたのが出資者で、起業家ではなかったからです。YCのロゴ自体はある種の内輪ネタです。Viawebのロゴは赤丸に白のVだったので、YCのロゴはオレンジ色の四角に白のYにしたのです。

[14] YCは2009年から数年間ファンドになっていました。あまりにも大きくなりすぎて、自己資金ではやっていけなくなったからです。しかし、Herokuが買収されて十分な資金を得たので、また自己資金に戻りました。

15] 私は「ディールフロー」という言葉が好きではありません。これは、ある時点における新規スタートアップの数は一定であるということが前提になっているからです。これは正しくありません。また、YCの目的は、YCがなければ存在しなかったであろうスタートアップを設立させることによって、この前提を正しくないものにすることにあります。

[16] 彼女によると、エアコンはすべて形も大きさも違うものだったそうです。エアコンが不足していて、手に入るものは何でも手に入れなければならなかったということです。しかし、それらはすべて、彼女にはすぐに運べないほど重いものだったそうです。

[17] HNのもう一つの問題は、エッセイを書きつつフォーラムを運営するときに発生する奇妙なエッジケースでした。フォーラムを運営していると、すべての会話ではないにしても、少なくともあなたに関わるすべての会話はあなたが見ているだろうと参加者に思われます。そして、エッセイを書くと、人々はそれに関する非常に想像力豊かな誤解をフォーラムに投稿します。この二つの現象は個別には面倒ながらも耐えられるものですが、その組み合わせは悲惨なものとなります。こうなると、それらの誤解に反応しないわけにはいかなくなります。というのは、あなたが会話に参加しているという前提があるので、Upvoteがたくさんついた誤解に反応しないでいると、暗黙のうちにそれが正しいと認めているように見えるからです。それだけではありません。あなたに喧嘩を売りたいと思っている人は、今がチャンスだと感じることになります。

YCを辞めて最悪だったのは、ジェシカと仕事ができなくなったことです。私たちは知り合ってからほぼずっとYCに取り組んできましたし、私生活からYCを切り離そうともしなかったし、切り離したいとも思わなかったので、辞めることは根深い木を引っ張り上げるようなものでした。

[19] 発明対発見の概念についてより正確に知るための1つの方法は、宇宙人について考えてみることです。十分に進んだ異星人文明であれば、どんな文明でも、例えばピタゴラスの定理については確実に知っているはずです。そのレベルの自信はありませんが、十分に進んだ異星人文明は、マッカーシーの1960年の論文にあるLispについても知っていると私は信じています。

しかし、もしそうだとしたら、これが彼らが知っているかもしれない言語の限界だと考える理由はありません。おそらく宇宙人は数字とエラーとI/Oも必要としているでしょう。ですから、マッカーシーのLispから、その発見性はそのままに、発展していく道が少なくとも一つはあるように思われます。

この草稿を読んでくれたTrevor Blackwell、John Collison、Patrick Collison、Daniel Gackle、Ralph Hazell、Jessica Livingston、Robert Morris、Harj Taggarに感謝します。